徳川家康という存在

 徳川家康 1542~1616年 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

 日本史のなかで超高密度な時代が、1600年前後の半世紀で、歴史好き、時代小説好きの人なら、史実をほどんど諳んじている人も多いだろう。
 私も、若い頃から司馬遼太郎に夢中になり、民俗学を志していたから、たくさんのエピソードが体に染み付いていて、思い出すたびに血湧き肉躍るといった興奮状態になることが少なくない。

 歴史書や小説などなぞってみても、日本人のかなり多くが「専門家」なので、たぶん「またかよ…」と思われるだろうから、今回は、私が自分で発見した、他に誰も書いていない独自性のある解釈を書いてみよう。

 家康が、三河松平家の人質として今川義元の家に引き取られ、氏真らと一緒に育ったことは誰でも知っている。
 このとき、家康はかなり高度な君主教育を受けていた。それは読み書きのなかで十八史略とか論語とか、当時の日本の代表的な文献である、源氏物語とか、太平記を読み漁り、あとは武芸の訓練に励んでいた。
 
 家康は、6歳のとき、今川家に人質として送られるとき、織田に寝返った家臣によって誘拐され、織田側の人質として二年を過ごした。このとき預けられたのが大須万松寺である。(実際には、松平広忠が、織田信秀に攻められ、降伏した時、竹千代が織田家に人質として差し出されたようだ)
 https://nihonshimuseum.com/ieyasu-childhood/

 余談、私は1990年ころタクシーの運転手だったが、万松寺の住職によく呼ばれた。
 和尚は頭巾を被って作務衣を着て身分を隠していたが、行先はいつでも錦の超高級クラブだった。当時、万松寺は、たぶん愛知県下の寺のなかで、もっとも儲かっていたはずだ。
 なんといっても、信長が父の葬儀で抹香を投げつけ、うつけぶりの責任を取らされて、平手政秀が切腹したのだから、戦国エピソード満載ですごい人気の寺だ。

当代、尾張随一の万松寺で9歳まで人質として育った竹千代は、万松寺の豊富な財物や書籍文献を知る機会に恵まれていた。だから相当な知識坊やになっていたはずだ。
 松平広忠の死後、今川義元は、織田家からの人質、信広と竹千代を交換し、竹千代は義元の屋敷で人質生活を送ることになった。
 義元の庇護下、竹千代は14歳で元服し、松平家康として武将となった。
 この年間、家康は、ひたすら勉学に励んだ。当時の教科書といえば、四書五経、18史略以外では、太平記が知られていた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E8%A8%98

 太平記は、室町時代に成立した日本史上、最大級の軍記、史書で、1318年、後醍醐時代から1368年くらいまでの半世紀の軍記で、今川家が編纂を行ったことが知られる。
 これが今川の文庫にあったため、思春期の家康は、夢中になって太平記を読み漁った。太平記こそ、徳川家康の思想的基礎を固めた史書である。

 太平記の核心は、100年にも渡る南北朝の対立であった。孝明暗殺や大室明治天皇など、明治維新の天皇正統性問題までつながるのだから、実際には500年以上だ。
 家康は、2つの勢力に別れた集団的対立が、どれほど深刻な結果、解決のつかない問題を引き起こすか思い知った。

 家康が太平記から学んだ核心的課題は、一つの共有概念の前に、それを信奉する2つの勢力が対立したとき、何が起きるのかという法則だった。
 まさに北朝・南朝の対立がそれである。それは、想像を絶する長期間にわたって、解決のつかなくなる歴史的対立を引き起こすものだった。

 実は、今、私が住んでいる中津川市蛭川にあっても、土着住民は頑なに南朝の伝統を信奉していて、地元、苗木藩の遠山氏、青山氏の宗教的ともいえる姿勢が残って、人々を束縛している。
 三遠南信といわれる遠州や三河、東濃、信州南部では、21世紀の今でも、後醍醐の子、宗良親王を立てて、南朝子孫のアイデンティティを共有しているのだ。

 また、私自身、実父が三河出身なのだが、先祖をたどると北条氏に行き着き、現在の栃木県付近、新田郡というところから来ていて、新田義貞とともに、南朝支援にかけつけていることを知って、驚愕してしまった。

 家康が太平記から学んだ真理、それは、一つの組織を2つに分けて対立させれば、互いに争いを繰り返し、幕府がうまく両者の上に調停役として君臨し、支配することができるという原理だった。
 https://hirukawamura.livedoor.blog/archives/2263658.html
 
 この「二分化対立システム」を、基幹政策として用いたのは、たぶん家康が最初だが、アメリカの議会制度で「二大政党制」が用いられている理由も同じことだろう。日本には、CIAが同じように二大政党制を持ち込んだ。戦後、長い間、自民党と社会党が二大政党となり、政治的安定が保たれていたのだ。
 大勢力を2つに分けてしまい互いをいがみ合わさせれば、他の弱小、泡沫勢力が二大勢力に吸収されて、取扱、支配が容易になるのだ。

 例えば、家康が一番恐れたのが、戦国時代、一大武装勢力だった僧兵である。全国の山伏、修験者は、たくさんの宗派に分かれて手がつけられなかったものを、家康は、天台宗系と真言宗系の二流派にまとめるよう指示した。
 これで全国の修験は、どちらかを名乗らねばならなくなり、幕府がお墨付きを与えたのだ。幕府は、両者の上に調停役として立ち、僧兵たちをうまく操作できるようになった。

 同じように、木地屋(小椋と筒井)とか大工(四天王寺流と建仁寺流)とか、神社(吉田神道と白川神道)、あらゆる力を持ちそうな組織を二分割して互いに争わせることで、幕府が調停役として安定を図ろうとした。
 これは、現代にまで残っていて、家康の基幹政策で、もっとも成功したシステムである。
 ところが、これを取り上げている研究者や解説は見たことがない。たぶん私だけだと思う。家康の二分化対立システムについて、私以外に触れている文書があれば、教えてほしい。

 実は、家康が、その生涯で、もっとも恐怖した大騒動があった。それは三河一向一揆である。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B2%B3%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86

 三河一向一揆は1563~1564まで半年間争われた真宗一揆で、曹洞宗の強かった東三河(豊橋豊川)は起きなかった。家康が二十歳くらいで三河徳川の領主に就任したときに起きた。
 真宗蜂起側に、後の徳川家、重臣になる本多正信や吉良氏、石川氏が就いて、主君であるはずの家康の命を狙おうとした。

 大久保忠教の著書『三河物語』の記述
 1562年に真宗本證寺に侵入した無法者を西尾城主酒井正親が捕縛したため、守護使不入の特権を侵害されたとして、1563年正月に一揆が起こった。
 この事件で、家康の有力家臣で、真宗門徒であった者の多くが、真宗(一向宗)側に付き、主君に逆らった。
 これは、家康にとって、伊賀越や三方原とならんで、生涯最大級の危機だった。

 家康は、この主君の命令に逆らって家康と敵対した家臣団を、どのように思想改造するかが人生最大の苦悩だった。宗教というものの思想洗脳の恐ろしさを、命からがら骨身に思い知らされたといっていい。
 そこで、家康が思いついたのが、今川時代に学んだ儒教、四書五経だった。

 儒教は、人や価値に序列をつけ、人間には生まれながらに貴賤の差があるとし、女は男に従い、弟は兄に従い、若者は長老に従い、民は君主に無条件に従うという価値観を教えていた。
 家康は、庶民が信じる宗教よりも、主君の方が絶対的に価値が高いという洗脳工作を行うことにした。

 そして、中国から伝わった儒教教書、朱子学を新井白石に命じて、全国に普及させるよう指示した。
 これは最初に、各藩の学校である藩校に教書として用いられ、やがて、寺請制度を利用して全国津々浦々に作られた寺子屋で五人組組織のなかで、文字を教え、親孝行や主君を敬う価値観を洗脳していった。

 商家地域では、子どもたちに算盤を教え、僧よりも儒者という人々が出てきて教員となった。しかし、これが、やがて本居宣長のような国学を生み、倒幕思想の基礎を生み出した。
 平田篤胤のような国学者、儒者たちの倒幕、維新は、明治国家によって、国家規模の儒教へと発展していった。

 その思想は、修身(道徳)という授業であり、天皇が生まれながらに尊い最高権威であると教えた。
 そうした序列価値観、生まれながらの貴賤によって成立する天皇制が、21世紀の今でも、日本国に生き続けている。

 それは家康を追い詰めた宗教よりも、序列や権威、身分の違いの方が価値が高いという思想として、たった今も、ダブルスタンダードの天皇歴(和暦)を標準化された西暦の上に置く、という無意味、非合理な制度として残されている。
 自民党は、儒教の序列主義を前提にした政党である。それは宗教の上に立つと彼らは思い込んでいる。

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